レイニーシーズン



絹混じりのハンカチは、手洗いでそっと押さえながら洗った。


カサブランカの花粉も綺麗に取れて、しずくを切りながら四隅をパンパンと延ばして晴天の日に干した。

部屋の窓辺でヒラヒラと、ハンカチの中の紫陽花が揺れる。

乾いたハンカチを四つにたたみながら、陽射しを含んだ暖かで柔らかい手触りに幾度となく和花さんを思い出した。

雨の日の男子校ほど鬱陶しいものはない。

梅雨の時期、一度は達彦が口にする言葉だった。

男子の差す傘の色が暗いと言うのだ。黒とか紺とか茶色とか、ただでさえ鬱陶しいのに色まで鬱陶しいと言う。

厚く覆われた雨雲はなかなか切れることはなくて、ここ一週間ほど断続的な雨が続いていた。

校舎周りの木々が湿気を帯びて、葉はより深い緑の色を成していた。


青と白のチェック柄の傘を差す。達彦と買い物に出かけて買った傘だった。

達彦は青と白の水玉模様の柄を選び、色違いで黄色と白の水玉を買わされそうになって慌ててチェック柄を買った。

最初こそ何だが派手に思えて恥ずかしかったけれど、慣れたら明るい柄もなかなかいいものだと思えた。


・・・そしてもうひとり、達彦が見たら喜びそうな柄の傘を差している人がいた。

赤紫と青紫が淡く重なり合うように咲く紫陽花の群生の中に、花柄の傘を差した本条先生がいた。



「何だい、白瀬君。傘なんて差してたらカゴが持てないじゃないか」

小雨が降る中の外での花摘みになるからと呼び出されて行ってみれば、開口一番言われた。

花屋の奥の部屋で頭からすっぽり被るレインコートに着がえて、カゴにシートを掛け急いでまたその場所へ戻った。

人には傘を差すなといいながら堂々と自分は傘を差している先生を見ていると、いつものことながら多少の理不尽さは感じる。

しかもいやみ程度に目立つ傘を差していればなおのことだ。



「どうしたんですか?その傘・・・まさか買われたわけじゃないですよね」

「おかしいかい?」

笑うと少年のような童顔の先生は、傘の柄を僕に見えるように向けた。


・・・その柄も紫陽花だった。


「雨の日にさ、面倒で傘差してなかったら地域ボランティアの会のおばちゃんたちがくれたんだ」


普段はおばちゃんたちのことなどないがしろにしているくせに、こんな時に限って嬉しそうに傘を差している。

ましてや紫陽花の柄というのがよけい気に入らなかった。


「・・・早く済ませましょう。今年は大学入試が控えているので僕もそんなに時間がないんです」

つい憮然として言ってしまったが、実際大学入試に向けて時間はいくらあっても足りないくらいだ。


「ふうん・・・進路は決めてるの?」

先生が左手に傘、右手に剪定バサミを持って紫陽花の中に分け入った。

パチン・・パチン・パチン・・・摘む間隔は一定していないのに、ハサミは同じ音を刻む。

「いえ、はっきりとはまだ・・・」

カットされた紫陽花の花びらを、傷めないようにそっとカゴに入れていく。

「なんだ、時間がないとか言うから・・・」

先生は摘む手を止めることなく言った。

「ありません。先生、僕たち高等部三年生はみんなそうです」

大学進学率100%のこの学校では当然のことなのに。

「みんなって、みんな進路も決めずただ漠然と大学に入るためだけに、必死になっているのかい?」

思わぬ先生の言葉に僕は手が止まってしまった。

「いや、そういうわけじゃ・・・・・・」

言いかけて次の言葉が続かなかった。


達彦は文系は苦手だが、理数系には恐ろしく強かった。工学部でロボットを作るのだという。

未来、医療の分野において人の体の一部分に変わるロボット。そのために最高のテクノロジーを学びたいという。

山崎は反対に文系が得意で、行く行くはジャーナリストになりたいと言っていた。

まずはその弟
一歩として、新聞社で記者をしながら腕を磨くのだと言う。

池田は8歳の時に母を病気で亡くしてから、ずっと医者になることを思い続けて来たそうだ。

の意志は新しい母を迎えても変わることはなかった。


僕は・・・。


「雨が本降りになって来たね。まだもう少し摘みたいけど・・・まぁいいか。
それじゃ白瀬君、帰ろ
うか」


紫陽花はカゴに3分の2ほどだった。

先生はまだ摘み足りなさそうに言ったけれど、水分を含ん
でいるので見た目以上の重さになっている。

先生は摘んだ紫陽花のカゴの中から、一株だけを手に持った。

後は抱えるには重すぎるので、
僕が肩に担いだ。


「その紫陽花はね、中等部の美術の時間に使うんだよ。
今年の絵画コンクールの課題らしい
よ」

先を行く先生が、時々振り返りながらそんな説明をしてくれた。

そうなんですかと相槌を打てるほど余裕はなかった。

直接体に当たる雨粒やぬかるんだ道が、
重い荷物を担ぐ足元を不安定にした。

「・・・白瀬君、ズボンの裾がびしょ濡れだね。レインコートは着て長靴を履いて来ないんだから、用意が悪いんだ。
宿舎でジャージに着がえてズボン乾かせばいいよ」


さっきから反応の薄い僕に先生はそう言うと、そのままさっさと行ってしまった。


強い雨脚に周囲の視野がかすむ中、まるで道案内をする目印のように先生の差す傘の柄だけがどこまでも遠く鮮やかに浮かんでいた。







花屋の奥の部屋で、摘んだ紫陽花と濡れたレインコートを片付けてから宿舎に寄った。

先生は二階の自室に居るのか、一階には居ないようだった。

シャワールームでジャージに着がえて、学生ズボンが乾くまでレストルームで待つことにした。

誰も居ないと思ってノックもせず開けた扉の向こうに、少年がいた。

名札紐の色は持ち上がりで、赤色は今年の中等部二年生。


「あっ、ごめんね。ノックもせず・・・」

僕の声に振り向いた少年はさほど驚いた様子はなかったが、それでも少し怪訝な顔をした。

「先生の花摘みを手伝ってて服が雨に濡れたので、・・・乾くまでここにいてもいいかな?」

手早く説明すると、少年はすぐ普通の顔に戻った。

「どうぞ。ボクは構いません」

愛想笑いをするでもなく、かといっていやな顔をするわけでもない。

左に流れる前髪をスッと手でかきあげる。

ラインを引いたような眉と射るような切れ長の眼が、
少年の口調と調和するかのようなクールさを醸し出していた。

まだ幼いと呼ぶに近い学年の中等部二年生。ひと言短く名前を名乗って、共に挨拶を交わした。


―宮本 准(みやもと じゅん)―


そのクールな対応と風貌が、彼の幼さを閉じ込めているようだった。




准は絵を描いていた。スケッチブックに描かれた花は、出窓のカウンターに置かれた紫陽花だ
った。

それはさっき摘んで先生が手に持っていたものだ。まだ雨粒がついている。

ラフ画ながら
ひとつひとつの小花が繊細なタッチで描かれていた。


「へぇー・・・上手いね。君、絵を描くの好きなんだね」

僕には絵を描くなどは無縁のことなので、とても新鮮だった。

「・・・好きで描いているわけじゃないです。課題なので」

スケッチブックから目を離すことなく、淡々と准は言った。

そういえばさっき摘んだ紫陽花も、中等部の美術の時間に使うと言っていた。

今ここでは同じ中等部の授業が平行して、准のためだけに行われているのだ。

僕もそれ以上話かけるのはやめて、読書で時間を潰した。

無言のレストルームはやけに雨音が大きく聞こえたけれど、けして耳障りな音ではなかった。

雨音に交じってドアをノックする音が聞こえた。先生だった。

先生は僕を見て軽くやぁと笑いかけてくれた。どうやら今度は無視されずに済むようだった。


「どう、出来てる?」

先生は准の席へ行きスケッチブックを覗いた。准がスケッチブックを差し出した。

「相変わらず上手だね、でも昨日も言ったよね。色を付けて完成さすのが課題じゃなかったかい」

准の差し出したスケッチブックを返しながら先生は言った。

准は返されたスケッチブックにちらっと目を落とすと

「先生、僕が出来るのはここまでです。それがいくら課題であったとしても、出来ないものは出来ないのです。
強制されることではないと思いますけど」


先生に向けた顔は無表情のままだった。

「それを許してしまえば、絵の苦手な子はみんな提出しなくなってしまうだろ」

准のスケッチブックをパラパラと先生はめくった。


「・・・苦手なら絵なんて描かなければいいんです。美術なんて勉強には不必要です」


准は絵の道具を片付け始めた。


「片付けてもいいけど、今日出来なかったら明日も同じだよ」


先生は准の主張などまるで取り合わなかった。

准が立ち上がって先生を見た。かすかに体が震えている。

准は震える体を落ち着かすようにゆっくりと言った。


「先生は知っているのに・・・知っていてボクに絵を描かせる」


「授業の一環だよ。君だって絵を描くのは好きだろう。上手に描けてるじゃないか」

先生がまた准のスケッチブックを手に取った。最初のページを繰って開いてみせた。

学校周辺の風景画だった。綺麗に色が塗られている。ただその色使いはとても個性的で不思議な色使いだった。

准が先生の目の前で、スケッチブックを引き裂いた。まず開かれたそのページを。

そして一枚、また一
枚ビリビリに破っていく。


「准君、やめろ」

僕は准の手を抑えた。

准はハッとしたように僕を見た。

しかしすぐまたクールな表情に戻って僕の抑えた手を振りほど
くと、出窓のカウンターの紫陽花を床に払い落とした。


「描けないのに!!」


床で割れて飛び散った破片を、無表情なまま見つめながら准が叫んだ。

准の態度やしゃべり方に接していると、中等部の二年生とは思えないほど落ち着いていた。

だが
その後姿は、小柄でまだ充分に男子の体つきにもなっていない子供の姿だった。



「准君、本当の赤色ってどんな色だい?」

先生が後ろからそっと准の両肩に手を置いた。手を置きながら聞いた。


「本当の赤色・・・?」


准が不思議そうに聞き返した。

「そう、本当の赤色さ。君のこの名札紐も赤色だ。白瀬君、准君の名札紐、どんな赤に見える?」

突然先生に聞かれて、とっさのことに思うまま答えた。

「深い赤ですね。黒をほんの少し混ぜ合わせたような赤に見えます」

「僕は少し茶色が入っているように見える。えんじがかってるって言うのかな」

准は黙って僕たちの会話を聞いていた。先生がもう一度准に聞いた。

「准君はどんなふうに見える?」

准はしばらく考え込んだあと、ポツリと言った。


「・・・ちょっとだけ・・緑・・」


「そうだね。同じ赤色でも、准君も白瀬君も僕も見る人によって違う赤色に見えるんだよ。
あと
角度や光でもそうだ。わかるかい?本当の赤色なんて誰にも見えない」

先生が静かな声で、ゆっくりと准に語りかける。

准は今どんな顔をしているのだろう。後姿なので表情がわからない。

先生に肩を抱かれてただ
黙って俯いている。


「・・・でも、変って言われた」


表情は見えないけれど、少しずつ准の口調が変わって行く。本来の14歳の少年のように。

「違うだろう?それは君が自分でそう思っているからだろう」

准の頭がビクッと上がった。


「―個性的な色使いだね― そう言ったんだろう、岡田君は。
それだけのことで、どうして叩い
たりしたの?」

先生の手が准から離れた。振り向いた准は精一杯普通を装うとするかのようだった。

「先生、岡田は勝手にボクのスケッチブックを見たんだ」

「確かに、岡田君は机の上に置いてあったのを黙って見たって言っていたよ。
あんまり上手な
のでつい見てしまったって。でも君が岡田君を叩いたのはそれが理由じゃないだろう」

先生の言葉に、准の震えるこぶしがそのクールな風貌を溶かして行く。

「・・・だって、そんなこと・・・思うわけ・・ない・・・んだ」

途切れ途切れに話す准に、先生が問いかける。


「どうして?」

「・・・・・・・・」


准は無言のまま先生を見つめていた。


雨はさらに激しく、雷雨となって降り続いていた。

まだ夕方の4時なのに夜間と間違うほどの暗
さで、時折響く稲妻の閃光が一瞬外を明るくした。


「おいで」


先生が准の手を取ってソファのところまで行った。

手を引かれて連れて来られた准の不思議そうな顔が、先生がソファに腰掛けた途端動揺に変わった。

ぐいっと手を引っ張られた准は、先生の膝の上に倒れ込むように乗せられた。


「な・・何するんですか!・・・先生?・・やっ!やだぁー!」


先生の膝から起き上がろうとする准を、先生は押さえつけながら学生服のズボンと下着を下ろした。


パシーン!


パンッ!パンッ!パンッ!パンッ!パンッ!


「あっ・・ぅ・・あぁ・・・」


准はあまりのことに言葉も叫び声も出ないようだった。


「これが君の答えだ。そうだろう、准!」


パシーン!パシーン!

パシーン!パシーン!


緩まない先生の手が、強く准のお尻を叩く。

准が無言であればあるほど、先生も無言でその手
を准のお尻に落とし続ける。

パンッ!パンッ!パンッ!・・・

パンッ!パンッ!パンッ!・・・


准は意地になって必死に痛みをこらえているようだった。しかし先生は、そんな准の意地などまるで関知していなかった。

ひと際大きく右手を振り上げて准のお尻を打った。



ピシャ―ンッ!


「痛ぁい!!うっ・・岡田・・が・・・上手だねって・・褒めてくれても・・ウソだって・・・思った。
そんな
こと・・・思うわけ・・ない・・・って」


先生の一打は、准の意地も自尊心も許さなかった。


ピシャ―ンッ!ピシャ―ンッ!


「あぁっん!・・岡田に・・・意地・・悪ばっかり・・・してた・・から」


どうして?先生の問いかけに対する准の答えだった。


ビシャーンッ!ビシャ―ンッ!


「うぇぇぇんっっ!ごめんなさいぃ!」


准が膝の上で、先生のズボンを握り締めながら大泣きしている。

その姿にクールさの欠片もな
かった。


准は他のみんなより動作の緩慢な岡田君にイライラしたという。

しかも寮が同室で、准が几帳面
であればあるほど岡田君へのイライラが募った。

ついきつい言葉を言ってしまう。それがだん
だんとエスカレートした。


准のお尻を叩く先生の手が止まった。

准はしゃくり上げるばかりだった。

先生は准が落ち着くまで、じっと准を見ていた。

そして准の呼吸が整うと、先生は静かに話しかけた。

一語一語を諭すように。



「准君、目先のものばかりを見ていてはいけないよ。岡田君のように感性を養ってごらん。
本質
的なものを見極める眼だ。岡田君は言っていたろう、宮本君は本当に絵を描くのが好きなんだねって」


「いつものんびりしてる岡田が羨ましかった。先生・・・ボク、絵描くの好きだ」


泣き止んだ准の顔がまた少しずつクールな表情に戻る。

僕も、気楽に学校生活を送る達彦を羨んだものだ。少なくともその時の僕にはそう見えた。

は以前の僕にどことなく似ている気がした。

割れた紫陽花の花瓶を片付けながら、僕は一人っ子だけれど弟がいたらこんな感じなのかなと准を見ていた。

准が気付いて僕を見た。

目が合ってニコッと笑うと、見る見るうちに准の顔が耳まで真っ
赤になった。


「ひっ・・やぁぁっ!みっ・・み・見るなぁぁっ!」


准はまだ先生の膝の上で、お尻を出したままだった。



激しく降っていた雨も、宿舎を出る頃には止んでいた。

こんなに早く帰ったら達彦は驚くだろうなと思いながら、帰りの道を急いだ。

帰り際、先生が僕に言った。


「白瀬君、まだ進路決めていないんだったら教職課程を取ったらどうだい?」


母に何と報告しょうか。それまでは、父との離婚などで何となく言い出しにくかった。

でももう話をしよう。きちんと自分の将来を母に提示して、そうしたらきっと母は言うだろう。

ほんの少し悔しそうな、いつもの口癖で。


―仕方ないわねぇ。守はやっぱりお父さん子ね―


「いえ、先生。僕は父と同じ仕事をしたいので、そちらに進みます」


―なんだい、決めていないなんて言っていたくせに―


てっきりそう言って気を悪くするだろうなと思っていたけれど、先生は特別何も言わずただ黙って微笑んでいるだけだった。



どんよりと全体を覆っていた雨雲に隙間が出来始めて、赤焼けに色付いた空が覗く。

空を見上げながら、その神秘な色にしばし思う。


例えこの空が何色に映ろうとも、美しいということだけは変わることはないのだろう。







今年の絵画コンクールで中等部から三名が課題の紫陽花で入賞した。そのひとりに准がいた。

コンクールを終えて返って来た入賞者の作品は、それぞれ額に入れ学校に飾られることになった。

雨粒に濡れる薄い緑と薄い黄色の紫陽花が、見事に融合した色合いで描かれた准の絵は、


―梅雨月間―


と題されて、来賓室に掛けられた。







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